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    日本経済新聞の人間発見に連載されました ~ 5 ~

    町工場、ロボットに挑む ⑤

    自社製品の夢実現 大阪万博で披露へ

    バリと呼ばれる切断面の出っ張りやほこりの出ない、画期的な金型の開発に成功した。祖業であるプリント基板加工との2本柱で経営が安定。次に目指したのがロボット事業だ。

    1993年に起業した時から、「いつかは自社製品を開発して売り出したい」と考えていました。プリント基板は製品の中に納まり、加工する当社の名前が出ることはありません。社員が誇りを持てるようにしたとの思いもありました。
    ロボット開発は約10年前から始めました。一つはプリント基板の加工に使う自動搬送機で、実験的に自社ラインで動かしています。現在はほとんどの工程で、社員が手作業で対象物をプレス機にセットし、切断した後は取り外しています。自動搬送機は安全性の確保と人手不足への対応に欠かせません。
    もう一つは小中学生向け教材「エレボット」です。人間の形をした高さ約20センチメートルのロボットが、小中学生のプログラミングに従っていろいろな動きをします。今春、4万9800円(税抜き)で売り出しました。子供のおもちゃにしては高いかもしれませんが、地元で開くプログラミング教室に1回参加して、使い方などを学べます。

    ロボット事業は2009年に地元、大阪府八尾市のコンテストで優勝したことが弾みになった。

    その時準優勝だった奈良先端科学技術大学院大の学生が、自動車メーカーを半年で辞めて当社に入社してきました。ジュニア部門で優勝した少年も彼を慕い、地元の高等専門学校を卒業後に当社に加わりました。ウェブサイトにロボット事業を乗せているせいか、最近は国立大学からも「自由でオモロそうな会社」と新卒学生が来るようになりました。
    ロボット本体は金属でできていて、その加工は町工場の得意分野です。胴体に使う樹脂も3Dプリンターで作れます。他社製の部品を活用してプログラムなどを組めば、ロボットが出来上がります。町工場でも、やる気と人材があれば手が届くのではないでしょうか。

    子供たちへのものづくり教育や中小企業の連携促進など、地域への「恩返し」にも取り組む。

    八尾市の異業種交流会「有志の会 八尾」の運営にかかわり、地元特産の枝豆、若ゴボウを使った「地ビール」を開発したり、お祭りやイベントで販売したりしました。昨年8月には子供たちがものづくりを学べる「みせるばやお」を市内にオープンしました。体験教室を土日などに開いて、そのなかには「エレボット」のプログラミング教室もあります。
    25年には大阪で2度目の国際博覧会(大阪・関西万博)が開かれます。1970年の前回は楽しめなかったので、今度は出店者として町工場の力を世界中にアピールできたらええやん、と思います。
    (この連載は東大阪支局長 苅谷直政が担当しました)

    日本経済新聞の人間発見に連載されました ~ 4 ~

    町工場、ロボットに挑む ④

    不良出にくい金型 資金難克服し開発

    プリント基板の加工会社で17年働いた後、1993年に独立した。バブル崩壊直後の不況下で、どうすれば生き残れるか必死に考えた。

    プリント基板加工に20年ほどかかわって不思議に感じることがありました。プレス機で加工するとバリと呼ばれる切断面の出っ張りやほこりが生じ、不良品とされました。
    ルーターと呼ばれるドリルのような工具で切削すればきれいに仕上がりますが、効率が良くありません。短時間で大量にこなすにはプレス機での加工しかなく、一定の不良発生は仕方ないと考えられていました。
    「しゃーないっちゅうのは、誰もが諦めてるだけなんちゃうんか?」。そんな問題意識から、バリやほこりが出ない金型を作ろうと考えました。金型職人からスタートした経験をもとに、98年に新しい金型のアイデアがひらめきました。

    問題は、そのアイデアで本当にバリやほこりが生まれないのか確かめられないことだった。金型の完成には、さらに5~6年を要した。

    一般的にプリント基板加工をするための金型は取引先から支給されます。自力でテスト用の金型を作るには10万円が必要です。会社の経営は厳しいままで、受注につながるかわからない金型に10万円を投じる余裕はありませんでした。
    かわりに、製品の生産終了で取引先から預かったままの古い金型を引っ張り出しました。刃先の加工やプレス機の動かし方を工夫して、アイデアを温めました。
    そのころ、イモビライザーと呼ばれる自動車の盗難防止用システムが広がり始めていました。プリント基板加工の受注が伸びて資金に余裕が生まれたため、2004年に腕のいい職人のいる会社に新しい金型を作ってもらいました。それでプリント基板を加工したらバリやほこりが出ず、うまくいきました。
    新しい金型は「SAF金型」と名付けました。外販したいと前のめりになるところですが、小さな町工場がいきなり営業に訪れても門前払いされるのが確実です。そのため脈のありそうな自動車部品メーカーに資料を送り、性能評価試験をクリアしました。採用が決まるまで1年ほどかかりました。

    プリント基板加工に加えて、金型という新たな柱ができたことで、藤原電子工業の経営は安定した。

    SAF金型を製作していた職人が、働きがいを求めて入社を希望してきました。ノウハウ流出を防ぐ狙いもあり、採用して内製化に乗り出しました。
    13年には市内3カ所に分かれていた工場を1カ所に集約しました。金型部門とプリント基板加工部門が一緒になると、改善提案など連携が強まり、生産効率も上がりました。SAF金型のおかげでプリント基板加工の受注も伸びました。
    ただグローバル化を背景に取引先の海外進出は続く可能性があります。本業が好調なうちに、もう1つ事業の柱を育てる必要があります。そこからロボット事業の構想が始まりました。

    日本経済新聞の人間発見に連載されました ~ 3 ~

    町工場、ロボットに挑む ③

    プリント基板に転身 バブル崩壊後、独立く

    町工場を転々としながら金属加工の腕を磨いた。21歳の時、ようやく腰を落ち着ける場を見つける。大阪府八尾市でプリント基板加工を手掛けていた亀井金属だ。38歳で独立するまで社員として働き、家族にも恵まれた。

    プリント基板は家電製品や時計、ゲーム機器などに幅広く使われるようになっていました。亀井金属は集積回路など部品を押す着する前の、配線が印刷された小さな基盤を取引先から預かり、金型とプレス機で1個ずつ打ち抜いていました。
    オヤジさんと一族、数人の従業員による居心地のいい町工場でした。仕事は切れ目がなく、休日には一族総出で外食に出かけるなど羽振りがよかったです。23歳のときにオヤジさんの四女と結婚し、長男と長女も授かりました。
    ただ性格的なものなのか、のんびりした雰囲気に一抹の不安を感じていました。亀井金属の取引先は1~2社だけで、プレス機も古いままでした。取引先の1社がおかしくなればあおりを受けますし、プレスの技術もどんどん進化します。1個ずつ打ち抜く方式から、1枚のシートに大量にプリントされた基盤をまとめてプレスする方式に変わりつつありました。
    オヤジさんに進言して、新しいプレス機こそ入りましたが、取引先を広げることには消極的でした。私は技術の進化など業界動向を学ぶため、自ら取引先を開拓し、残業で注文をこなしていました。バブル崩壊後に主要な取引先の仕事が減りだしたので、自分で開拓した取引先を引き継ぐ形で独立しました。

    93年に現在の藤原電子工業を立ち上げ、社長に就いた。だが不況の波は生まれたばかりの小さな町工場にも容赦なく押し寄せる。生き残るすべを必死に考えた。

    八尾市やお隣の東大阪市には大小さまざまな「貸工場」が多くあります。私は約70平方メートルの貸工場を月40万円で借りました。プレス機は東大阪市内の販売会社などを探し回り、中古を2台購入しました。
    私と妻、従業員2人の合計4人。毎月の売り上げ約150万円から、従業員への給与、家賃や借入金の返済などで、1年ほどは自分たちの給料すら残らない状態でした。食卓には毎晩煮物の白菜料理が並んでいました。白菜が安かったためで、「またか」と思いながら我慢して箸を運びました。
    当時小学4年生だった長女は家計を案じ、お年玉などの貯金を生活費の足しにするよう妻に渡していました。実は私も小学生のころ、行商をしていた両親に頼まれて資金繰りの足しに自分のお年玉を差し出した事があります。親になって、我が子に同じことをさせるとは思いもしませんでした。
    会社がコケたら、従業員も家族も路頭に迷ってしまいます。自社の強みと弱みをあぶり出し、どうしたら生き残れるのか真剣に考えました。強みは思い浮かばず、出てくるのは弱みばかり。資金力、技術力、営業力、どれもありません。

    日本経済新聞の人間発見に連載されました ~ 2 ~

    町工場、ロボットに挑む ②

    伯父の工場で修業 金属加工の腕磨く

    15歳で親元を離れて、伯父が経営する大阪府八尾市の金型工場で働き始めた。住み込みだった。

    樹脂や金属などの素材を金型の上に置いてプレス機で加工すると、生活用品から家電、機械部品などが仕上がります。金型は形を作る大切な装置です。三重県の小さな町で育った私は金型を見たことがなく、工作機械も触ったことがありません。親方でもある伯父は無口で気難しい職人気質。「聞いても分からんものは見て覚えろ」。そばで見ながら技を習得しました。
    金型の成型のため金属を削っていると、摩擦で熱くなった切り粉が飛び散って顔の周りに飛んできます。今なら当たり前の防護用ゴーグルなどありません。小さな火傷は絶えず、切り粉が目に入ったら翌朝は真っ赤に充血していました。
    大阪特有の夏の蒸し暑さには参りました。伯父が工場内にベニヤ板で作った部屋は、2段ベッドがあるだけ。もちろん、エアコンなどは付いていません。自動販売機で買ったジュースを一晩かけて飲み、のどの渇きを抑えました。
    2歳上の兄も別の職場から移ってきて一緒でした。お互い血気盛んな年ごろ。仕事のつらさや鬱憤がたまるせいか、ささいなことが原因でけんかが絶えませんでした。
    働き始めた1970年には、ちょうど大阪で国際博覧会(万博)が開かれました。1回行きましたが、1人だったのでまったく楽しめませんでした。

    町工場で働く同世代の若者らと親しくなった。食事などをごちそうしてくれる大人もいて、優しさに励まされた

    伯父の工場では1日千円、1カ月25日働いて2万5千円を給料としてもらっていました。昼間働いて夜寝るだけでしたから食事やジュース以外にはお金は使わず、毎月1万円を貯金しました。でも「自分の工場を持つのは遠いな」とむなしい気持ちに襲われました。
    そんなとき、同世代の仲間たちと親しくなりました。八尾市には集団就職などで地方から出てきた若者らがたくさんいて、彼らを中心に親睦を目的にしたサークル活動が盛んでした。
    親しくなった仲間の自宅に招かれ、母親が「よっちん、ご飯食べたか?」と気遣って食事を出してくれることもありました。「大阪のお母さん」のような方が数人いて、人の温かさを痛感しました。
    「ウチの工場で働かへんか?」と誘ってくれる仲間もいて、旋盤や溶接などの職を転々としながら、機械操作と金属加工の技術を身につけました。
    だいぶ腕は上がっていたと思います。伯父に頼まれて最初の金型工場に戻ったとき、月給は7万円と約3倍になりました。ただ身内同士なので、つい甘えが生じます。お互い仕事のやり方に不満がたまると、爆発してしまいます。21歳の時に知人の紹介で、市内でプリント基板を加工する町工場に移りました。それが大きな転機となりました。

    日本経済新聞の人間発見に連載されました ~ 1 ~

    町工場、ロボットに挑む ①

    実家は食品の行商 15歳で働きに出る

    小さな町工場がロボット事業に参入--。そんな夢を実現させたのが藤原電子工業(大阪府八尾市)の藤原義春社長(64)だ。本業は自動車部品にゃ通信機器に使われるプリント基板の加工だが、新しい金型の開発にも成功。挑戦する姿勢が若い技術者を引き付ける。2025年に地元で開かれる国際博覧会(大阪・関西万博)では、世界へのアピールも狙う。

    今春、小中学生の教材ロボット「エレボット」を売り出しました。子供がプログラミングすると、それに従って身長約20センチメートルのロボットが前後左右に移動したりポーズをとったりします。大手企業のロボットに比べたら角張っていて洗練されていませんが、基本的な仕組みや構造は同じです。子供たちが、ものづくりに興味を持ってくれたらという思いがあります。
    他にも本業であるプリント基板の加工向けに、対象物を機械にセットしたり取り外したりする自動搬送ロボットを開発しました。年商6億円従業員30人の町工場がなぜと、疑問に思われるかもしれません。でも夢があるじゃないですか。
    私が親元を離れて大阪に働きに出たのは大阪万博が開かれた1970年のことです。私自身、ロボットを作るなんて当時は考えもしませんでした。

    故郷は三重県南勢地方にある紀勢町(現大紀町)。両親は朝から晩まで働いていたが、家は貧しかった。

    55年に3人兄弟の次男坊として生まれました。父はオート三輪で食料品を売って回る「行商」を営んでいました。毎朝午前3時に起床。往復数時間かけて仕入れに行き、戻ってから母と手分けして周囲の農家などに販売するのです。
    小学4年のときです。ある晩、両親が「お金持ってへんか?」と聞いてきました。ためていた数千円のお年玉を出したら、「明日の仕入れができる」と喜ばれました。つけ払いしているお客が多く、資金繰りが厳しかったようです。
    中学2年のとき、ある先生から授業中に無視されるようになりました。一人ずつ順番に当てて私だけ避けるのです。思い当たるのは、宿題に落書きしたまま提出したことくらい。先生への不信感が芽生えました。遊んでばかりで成績もいまひとつ。高校に進んでも楽しくないだろうと思いました。家の商売は相変わらずで、進学する余裕がないことも理解していました。

    中学を卒業すると、すぐに働きに出た。就職先は大阪府八尾市にある伯父の工場だった。

    父の運転で4時間ほどかけて送ってもらいました。同乗していた母は、15歳で働かせることを申し訳なく思っていたそうです。約70人の同級生のうち就職は私を含めて10人ほど。高校に進んだ彼らと大人になっても対等に付き合うにはどうしたらいいか?工場で働く以上は社長にならんと、と決意しました。(この連載は東大阪支局長の苅谷直政が担当します)

    WBSで紹介されました

    水を使わない足湯、ゆっ太郎が2017年2月9日のテレビ東京系ワールドビジネスサテライトのトレンドたまごで紹介されました。

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    DOYU HYOGO に掲載されました

    DOYU HYOGO 2014年1月号兵庫県中小企業家同友会の月刊誌「DOYU HYOGO」2014 年 1 月号(Vol.240)に掲載されました。

    内容はこちらからご覧になれます。

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