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日本経済新聞の人間発見に連載されました ~2~

2019年11月4日

日経新聞 人間発見 -2-

町工場、ロボットに挑む ②

伯父の工場で修業 金属加工の腕磨く

15歳で親元を離れて、伯父が経営する大阪府八尾市の金型工場で働き始めた。住み込みだった。

樹脂や金属などの素材を金型の上に置いてプレス機で加工すると、生活用品から家電、機械部品などが仕上がります。金型は形を作る大切な装置です。三重県の小さな町で育った私は金型を見たことがなく、工作機械も触ったことがありません。親方でもある伯父は無口で気難しい職人気質。「聞いても分からんものは見て覚えろ」。そばで見ながら技を習得しました。

金型の成型のため金属を削っていると、摩擦で熱くなった切り粉が飛び散って顔の周りに飛んできます。今なら当たり前の防護用ゴーグルなどありません。小さな火傷は絶えず、切り粉が目に入ったら翌朝は真っ赤に充血していました。

大阪特有の夏の蒸し暑さには参りました。伯父が工場内にベニヤ板で作った部屋は、2段ベッドがあるだけ。もちろん、エアコンなどは付いていません。自動販売機で買ったジュースを一晩かけて飲み、のどの渇きを抑えました。

2歳上の兄も別の職場から移ってきて一緒でした。お互い血気盛んな年ごろ。仕事のつらさや鬱憤がたまるせいか、ささいなことが原因でけんかが絶えませんでした。

働き始めた1970年には、ちょうど大阪で国際博覧会(万博)が開かれました。1回行きましたが、1人だったのでまったく楽しめませんでした。

町工場で働く同世代の若者らと親しくなった。食事などをごちそうしてくれる大人もいて、優しさに励まされた

伯父の工場では1日千円、1カ月25日働いて2万5千円を給料としてもらっていました。昼間働いて夜寝るだけでしたから食事やジュース以外にはお金は使わず、毎月1万円を貯金しました。でも「自分の工場を持つのは遠いな」とむなしい気持ちに襲われました。

そんなとき、同世代の仲間たちと親しくなりました。八尾市には集団就職などで地方から出てきた若者らがたくさんいて、彼らを中心に親睦を目的にしたサークル活動が盛んでした。

親しくなった仲間の自宅に招かれ、母親が「よっちん、ご飯食べたか?」と気遣って食事を出してくれることもありました。「大阪のお母さん」のような方が数人いて、人の温かさを痛感しました。

「ウチの工場で働かへんか?」と誘ってくれる仲間もいて、旋盤や溶接などの職を転々としながら、機械操作と金属加工の技術を身につけました。

だいぶ腕は上がっていたと思います。伯父に頼まれて最初の金型工場に戻ったとき、月給は7万円と約3倍になりました。ただ身内同士なので、つい甘えが生じます。お互い仕事のやり方に不満がたまると、爆発してしまいます。21歳の時に知人の紹介で、市内でプリント基板を加工する町工場に移りました。それが大きな転機となりました。