日本経済新聞の人間発見に連載されました ~1~
町工場、ロボットに挑む ①
実家は食品の行商 15歳で働きに出る
小さな町工場がロボット事業に参入--。そんな夢を実現させたのが藤原電子工業(大阪府八尾市)の藤原義春社長(64)だ。本業は自動車部品にゃ通信機器に使われるプリント基板の加工だが、新しい金型の開発にも成功。挑戦する姿勢が若い技術者を引き付ける。2025年に地元で開かれる国際博覧会(大阪・関西万博)では、世界へのアピールも狙う。
今春、小中学生の教材ロボット「エレボット」を売り出しました。子供がプログラミングすると、それに従って身長約20センチメートルのロボットが前後左右に移動したりポーズをとったりします。大手企業のロボットに比べたら角張っていて洗練されていませんが、基本的な仕組みや構造は同じです。子供たちが、ものづくりに興味を持ってくれたらという思いがあります。
他にも本業であるプリント基板の加工向けに、対象物を機械にセットしたり取り外したりする自動搬送ロボットを開発しました。年商6億円従業員30人の町工場がなぜと、疑問に思われるかもしれません。でも夢があるじゃないですか。
私が親元を離れて大阪に働きに出たのは大阪万博が開かれた1970年のことです。私自身、ロボットを作るなんて当時は考えもしませんでした。
故郷は三重県南勢地方にある紀勢町(現大紀町)。両親は朝から晩まで働いていたが、家は貧しかった。
55年に3人兄弟の次男坊として生まれました。父はオート三輪で食料品を売って回る「行商」を営んでいました。毎朝午前3時に起床。往復数時間かけて仕入れに行き、戻ってから母と手分けして周囲の農家などに販売するのです。
小学4年のときです。ある晩、両親が「お金持ってへんか?」と聞いてきました。ためていた数千円のお年玉を出したら、「明日の仕入れができる」と喜ばれました。つけ払いしているお客が多く、資金繰りが厳しかったようです。
中学2年のとき、ある先生から授業中に無視されるようになりました。一人ずつ順番に当てて私だけ避けるのです。思い当たるのは、宿題に落書きしたまま提出したことくらい。先生への不信感が芽生えました。遊んでばかりで成績もいまひとつ。高校に進んでも楽しくないだろうと思いました。家の商売は相変わらずで、進学する余裕がないことも理解していました。
中学を卒業すると、すぐに働きに出た。就職先は大阪府八尾市にある伯父の工場だった。
父の運転で4時間ほどかけて送ってもらいました。同乗していた母は、15歳で働かせることを申し訳なく思っていたそうです。約70人の同級生のうち就職は私を含めて10人ほど。高校に進んだ彼らと大人になっても対等に付き合うにはどうしたらいいか?工場で働く以上は社長にならんと、と決意しました。(この連載は東大阪支局長の苅谷直政が担当します)