日本経済新聞の人間発見に連載されました ~3~
町工場、ロボットに挑む ③
プリント基板に転身 バブル崩壊後、独立
町工場を転々としながら金属加工の腕を磨いた。21歳の時、ようやく腰を落ち着ける場を見つける。大阪府八尾市でプリント基板加工を手掛けていた亀井金属だ。38歳で独立するまで社員として働き、家族にも恵まれた。
町工場を転々としながら金属加工の腕を磨いた。21歳の時、ようやく腰を落ち着ける場を見つける。大阪府八尾市でプリント基板加工を手掛けていた亀井金属だ。38歳で独立するまで社員として働き、家族にも恵まれた。
プリント基板は家電製品や時計、ゲーム機器などに幅広く使われるようになっていました。亀井金属は集積回路など部品を押す着する前の、配線が印刷された小さな基盤を取引先から預かり、金型とプレス機で1個ずつ打ち抜いていました。
オヤジさんと一族、数人の従業員による居心地のいい町工場でした。仕事は切れ目がなく、休日には一族総出で外食に出かけるなど羽振りがよかったです。23歳のときにオヤジさんの四女と結婚し、長男と長女も授かりました。
ただ性格的なものなのか、のんびりした雰囲気に一抹の不安を感じていました。亀井金属の取引先は1~2社だけで、プレス機も古いままでした。取引先の1社がおかしくなればあおりを受けますし、プレスの技術もどんどん進化します。1個ずつ打ち抜く方式から、1枚のシートに大量にプリントされた基盤をまとめてプレスする方式に変わりつつありました。
オヤジさんに進言して、新しいプレス機こそ入りましたが、取引先を広げることには消極的でした。私は技術の進化など業界動向を学ぶため、自ら取引先を開拓し、残業で注文をこなしていました。バブル崩壊後に主要な取引先の仕事が減りだしたので、自分で開拓した取引先を引き継ぐ形で独立しました。
93年に現在の藤原電子工業を立ち上げ、社長に就いた。だが不況の波は生まれたばかりの小さな町工場にも容赦なく押し寄せる。生き残るすべを必死に考えた。
八尾市やお隣の東大阪市には大小さまざまな「貸工場」が多くあります。私は約70平方メートルの貸工場を月40万円で借りました。プレス機は東大阪市内の販売会社などを探し回り、中古を2台購入しました。
私と妻、従業員2人の合計4人。毎月の売り上げ約150万円から、従業員への給与、家賃や借入金の返済などで、1年ほどは自分たちの給料すら残らない状態でした。食卓には毎晩煮物の白菜料理が並んでいました。白菜が安かったためで、「またか」と思いながら我慢して箸を運びました。
当時小学4年生だった長女は家計を案じ、お年玉などの貯金を生活費の足しにするよう妻に渡していました。実は私も小学生のころ、行商をしていた両親に頼まれて資金繰りの足しに自分のお年玉を差し出した事があります。親になって、我が子に同じことをさせるとは思いもしませんでした。
会社がコケたら、従業員も家族も路頭に迷ってしまいます。自社の強みと弱みをあぶり出し、どうしたら生き残れるのか真剣に考えました。強みは思い浮かばず、出てくるのは弱みばかり。資金力、技術力、営業力、どれもありません。